この記事では、プロ野球で活躍した選手が引退する時の名言を紹介します。
どんなに優れたプロ野球選手にでも、いつかはやってくる「現役引退」の日。
ほとんどのプロ野球選手は、一般の社会では、まだ若い30代で現役生活に幕を閉じます。
昨日まで、ひいき球団にとっては憎い存在だった選手でも、引退の時の「名言」は、プロ野球ファンの胸を打ちます。
【プロ野球】引退の名言
長嶋 茂雄(読売ジャイアンツ)
「我が巨人軍は永久に不滅です」
最初は、プロ野球ファンでなくても知っている人が多い長嶋選手の引退の名言です。
長嶋茂雄は、1958年にプロ入りし、1974年に現役を引退しました。
- 読売ジャイアンツのV9に貢献
- 大卒選手として、プロ野球史上初の400本塁打・2000本安打同時達成
- シーズン最多安打10回はプロ野球最多記録
- 首位打者6回はセ・リーグ最多記録
チャンスに勝負強さをいかんなく発揮する選手でしたが、1973年、王選手が4番の座に座るようになると、相手投手が王選手との勝負を避けて5番の長嶋選手との勝負に出る試合が増え、自らの時代が終わったと思わされたそうです。
この年にチームから引退勧告を受けたながらも、現役を続行したものの、翌年に引退を決意し、川上監督とともにチームを後にします。
記者会見では、「打球が野手の正面を突くようなって力の衰えを感じた」と語っています。
明るいイメージの長嶋選手も、引退する前は、悩んだり苦しんだりしたのでしょうね
王貞治(読売ジャイアンツ)
「口はばったい言い方だが、王貞治としてのバッティングができなくなったということです。」
一本足打法で生涯本塁打数の世界記録を持つ「世界の王」こと王選手の引退の名言です。
王貞治は、1959年にプロ入りし、1980年に現役を引退しました。
- 読売ジャイアンツのV9に貢献
- レギュラーシーズン本塁打・通算868本は世界記録
- プロ野球史上最多記録の本塁打王15回
- プロ野球史上最多記録の打点王13回
「一本足打法」でプロ野球界を席巻し、通算本塁打868本の世界記録や、プロ野球記録であるシーズン50本塁打以上を3回記録するなど、多くの本塁打記録を達成しましたが、1979年頃になると、次第に自身の衰えを隠せなくなってきました。
1981年も現役を続行するものの、選手兼助監督となることが決まっていましたが、1980年のシーズンが終わると、突如として現役を引退することを発表しました。
「前の自分なら打てるはずの球が打てなくなったので、『ああ、俺ももう御仕舞いかなあ…』と思ったんだよ」と現役引退を決意したときのことを語っています。
世界の王さんが、自分らしくプレーできなくなったときは、本当に悔しかったんでしょうね。
星野仙一(中日ドラゴンズ)
「私のマウンド生活には、悔いはありません。数々の思い出と共に、さわやかにマウンドを去ります」
「燃える男」として巨人キラー、阪神キラーとして活躍した星野選手の引退の名言です。
星野仙一は、1968年にプロ入りし、1982年に現役を引退しました。
- 現役通算で8回の二ケタ勝利
- 1974年に初代最多セーブ王と沢村賞を獲得
- V9時代を含む巨人を相手に、35勝31敗と勝ち越した巨人キラー
1981年からは、現役を続行しながら投手コーチ補佐を兼任していましたが、チームが優勝した1982年には、自身最低の3勝5敗という成績で終わり、現役を引退することを発表しました。
星野選手の代名詞である「打倒巨人」は、ドラフト会議に於いて、巨人が田淵幸一を指名できなかった時のハズレ1位を星野にするとの密約を破り、他の選手を指名したことが原因だったと言われています。
しかし、星野が大学2年の時に肘を痛めていたとの情報を巨人側が得ていて、そのため指名に踏み切らなかったということを知り、心の中のシコリは消えたそうです。
星野選手は、ひいき球団が違っても、ひとりの選手として男惚れしてしまう選手です。
落合博満(ロッテ、中日、巨人、日ハム)
「代打で始まった俺の野球人生。最後も代打で終わりたい」
洞察力のあるスマートな野球をしている落合選手の引退の名言です。
落合博満は、1978年にプロ入りし、1998年に現役引退しています。
- 史上最年少の28歳で三冠王を獲得
- 1986年、2年連続で3度目の三冠王獲得
- プロ野球で、日本人選手初の1億円プレーヤー
1995年に通算2,000安打を達成しましたが、なんと名球会入りは辞退しています。
1997年は、日本ハムは開幕から好調でしたが、落合自身は、年齢的な衰えと疲労もあり、またケガもしてしまったため、出場機会が減っていきました。
現役引退を決めていた1998年、最終打席は、プロ初打席と同じように代打での出場を希望していた落合は、シーズン最終戦での先発を断り、代打で出場しました。
見た目もバッティングフォームも決してかっこいいわけではないのに、でも、なぜかかっこいいと思わせてくれる選手でした。
原辰徳(読売ジャイアンツ)
「巨人軍の4番打者には何人も侵すことが出来ない聖域があります。今日、その夢は終わります。しかし、私の夢には続きがあります。その言葉を約束して、今日、引退します」
いつも長嶋さんや王さんと比べられていましたが、決して見劣りしない成績の原選手の引退の名言です。
原辰徳は、1980年にプロ入りし、1995年に現役引退しています。
- 1980年代から1990年代まで巨人の4番打者
- チームの6度のリーグ優勝、3度の日本シリーズ優勝に貢献
- 12年連続20本塁打は日本記録
- 巨人の日本人選手として初めての1億円プレーヤー
1993年には、複数の故障による打撃不振で、プロ入り初の規定打席未達、自身最低の打率.229、本塁打11本で終わると、翌1994年には、中日からFAで移籍してきた落合選手に4番を譲ることとなり、2年連続で規定打席未達に終わりました。
1995年、複数の球団からの移籍の誘いを断り、現役を引退しました。
監督として成功を収めていると言ってもいい原選手の引退の挨拶も、しっかり夢を叶えているところも、カッコよすぎます。
古田敦也(東京ヤクルトスワローズ)
「また…また、会いましょう」
野村監督のID野球の申し子として、メガネがスマートさを醸し出していた古田選手の引退の名言です。
古田敦也は、1989年にプロ入りし、2007年に現役引退しています。
- 大卒社会人を経てプロ入りした選手としては史上初の通算2000本安打
- シーズン盗塁阻止率.644と通算盗塁阻止率.462は日本記録
- シーズン打率3割以上を8回
- 捕手としての生涯打率の日本記録保持者
メガネをかけた選手を敬遠していた当時のプロ野球界でしたが、1990年にヤクルトに入団すると、即戦力で活躍し、2年目には打率.340で、セ・リーグでは初となる捕手での首位打者も達成しました。
1993年には、現在も日本記録である盗塁阻止率.644を達成して、シーズンMVPに輝いています。
2005年に試合中にケガをすると、体調を崩し出場選手登録を抹消、復帰後に再度ケガをして、このシーズンは規定打席未達に終わりました。
2006年から選手兼任監督となりましたが、翌2007年にチームのBクラスが確定すると、記者会見で「チームの成績不振の責任を取りたい」と語り、現役引退と監督退任を表明しました。
明るく陽気な選手の多いヤクルトで中心的な存在の古田の引退のあいさつは、だからこそ感動します。
野茂 英雄(近鉄バファローズ、ロサンゼルス・ドジャースなど)
「引退する時に悔いのない野球人生だったという人もいるが、僕の場合は悔いが残る」
日本の野球選手にMLBへの道を開いてくれた野茂選手の引退の名言です。
野茂英雄は、1989年にプロ入りし、2008年に現役引退しています。
- パ・リーグ初の沢村栄治賞
- シーズン最多勝利4回はパ・リーグ最多タイ記録
- MLBでノーヒット・ノーラン2回達成
- 日米通算最多奪三振(3122個)
独特の「トルネード投法」から繰り出される投球で三振を量産し、日米で活躍しました。
2006年に右ひじの炎症が原因で故障者リスト入りし、手術を受けたものの回復が思わしくなく、「トルネード投法」の特徴であるワインドアップを封印し、セットポジションからの投法に変更しました。
2008年に「自分の中では、まだまだやりたい気持ちが強いが、自分の気持ちだけで中途半端にしていても周りに迷惑をかけるだけだと思った」と語り、引退を表明しました。
MLBへの道を開いた野茂が、まだ野球を続けたかった気持ちが伝わって切ないです。
SHINJO(阪神タイガース、北海道日本ハムファイターズ)
「今日、この日、この瞬間を心のアルバムに刻んで、これからも俺らしく行くばいっ!」
敬遠のボールを打つなど、見ているだけでも楽しかった新庄選手の引退の名言です。
SHINJOは、1989年にプロ入りし、2006年に現役引退しています。
- 意外性あふれる打撃と強肩を生かした守備で、規格外の人気を獲得
- 阪神球団史上最年少での先発4番出場
- 日本人野手初のメジャーリーガー
- ゴールデングラブ賞を10回獲得
2006年の1本目の本塁打を「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニフォームを脱ぎます打法」と命名し、なんと試合中に現役引退を表明しました。
この年、日本ハムは44年ぶり2度目の日本一に輝き、新庄選手は、入団会見で掲げた「札幌ドーム満員」と「チームの日本一」の2つの目標を共に達成してユニフォームを脱ぎました。
破天荒な行動が多い新庄でも、引退する時には涙を流したことを聞くと、とても親近感がわいてしまいます。
木村拓也(日本ハムファイターズ、広島東洋カープ、読売ジャイアンツ)
「家族にひとこと言わせてください。今まで支えてくれて本当にありがとう。パパ、頑張ったよ」
引退後コーチとして活躍していましたが、突然虹の橋を渡ってしまった木村選手の引退の名言です。
木村拓也は、1990年にプロ入りし、2009年に現役引退しています。
- 代打の切り札であり盗塁も決めるスーパーサブ
- 投手・一塁手以外をこなすユーティリティープレイヤー
広島在籍中の2004年、故障のためにスタメンの機会が減り、シーズン終盤には、椎間板ヘルニアを発症して手術を受けました。
巨人在籍中の2009年は、スタメンから外れることも多くなり、一軍登録を抹消されることもありましたが、再度、一軍登録された後の9月には、捕手登録選手が全て交代してしまった試合で、10年振りに捕手として出場したこともありました。
この年、原監督は若手にチャンスを与える構想を立てたため、木村選手が出場機会が減ることを考慮、木村選手にコーチ就任を打診し、木村選手は現役引退を決意しました。
木村選手の引退セレモニーがファン感謝デーに行われましたが、息子がインフルエンザにかかり、家族が会場に来ることができませんでしたが、木村選手は家族に「パパはがんばったよ」とあいさつしました。
木村選手の家族を想う言葉には、同じ父親として、とても感動させられます。
【プロ野球】引退の名言:まとめ
この記事では、プロ野球選手が現役引退した時の名言を紹介しました。
わたし達がテレビなどで見ることが出来ないところでは、想像もできないような努力を積んできたプロの選手のプレーに魅了されますね。
そんな、プロに入る前の幼いころから野球に打ち込んできた選手が、万感の思いで引退を表明する姿や、そのあいさつの一言一言は、とても感動させられますね。
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