MLBで42番が永久欠番の理由:閉鎖的なMLBに風穴を開けた男

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この記事では、MLBで「42」が永久欠番になったエピソードを紹介します。

永久欠番は、球団に多大な貢献をした選手を称えるために、その選手が現役時代につけていた背番号を、球団の他の選手には永久に使用しないようにすることです。

この記事を読めば、MLBでは背番号「42」が全球団で永久欠番である理由が分かります。

MLBで「42」が永久欠番である理由

MLB全球団で背番号「42」が永久欠番になったのは、ジャッキー・ロビンソンという選手の功績を称えたからです。

彼は、1901年以降の近代MLBにおいて、初めてのアフリカ系アメリカ人選手として、多くの壁を打ち破りました。

ジャッキー・ロビンソンの生い立ち

小さい頃のジャッキーが住んでいたカリフォルニア州パサディナは、ヨーロッパ系の人たちが多く住む町で、シングルマザーでもあった母親の収入だけでは生活が苦しく、生活保護を受けていました。

そんな環境のため、道を外れてしまったジャッキーは、不良と関係を持ち、警察沙汰も起こすようになっていました。

しかし、母親が悲しむ姿を見たくなかったジャッキーは、スポーツに没頭することで徐々に道を正すと、次第に頭角を現し、奨学金で高校や大学に進学しました。

その後、陸軍に入ると、試験を突破して幹部候補生の学校に入学し、少尉にまで上り詰めましたが、軍のスポーツチームには、アフリカ系の彼には居場所がありませんでした。

ぺんどら
ぺんどら

陸軍という国の機関に入っても閉鎖的なところがあったんですね

1945年、陸軍を去ったジャッキーが次に選んだのは、アフリカ系アメリカ人が中心となって構成された野球リーグである「ニグロ・リーグ」で、「カンザスシティ・モナークス」という球団に入団しました。

そこでは、打率.345でチーム内で最高の成績を残しますが、当時のホテルは、アフリカ系アメリカ人の宿泊を拒否していたことから、移動用のバスで食事や睡眠をとっていたといいます。

そんな環境に屈することなく奮闘すると、ブルックリン・ドジャース(現在のロサンゼルス・ドジャース)の会長ブランチ・リッキーの目に留まり、ドジャース傘下の「モントリオール・ロイヤルズ」に入団しました。

入団の際、リッキーはジャッキーに対して、「君は、これまで誰もやっていない困難な戦いを始めなければならない。その戦いに勝つには、偉大なプレーヤーであるばかりか、立派な紳士でなければならない。仕返しをしない勇気を持て」と諭しました。

1年目の1946年、ジャッキーがリーグ戦に出場すると、観客から皮肉られたり、彼がいるという理由だけで試合が中止になったり、チームメイトからも無視されるなど、多くの困難にあいました。

それでも「必死にプレーして結果を出せば、みんなが自分を認めてくれる」と信じ、打率.349、打点113でリーグトップの成績を挙げると、チームも優勝し、次第に周囲から認められるようになりました。

ぺんどら
ぺんどら

わたしたちには、想像もできないような困難がジャッキーにはふりかかっていたんですね

ジャッキー・ロビンソンのMLB時代

1947年、ついにMLB昇格を果たしますが、オーナー会議では、ドジャース以外の全球団がジャッキーがMLBでプレーすることに反対し、チームメイトの中からもジャッキーとのプレーを拒否する選手も現れました。

これに対して、MLBのコミッショナーであるハッピー・チャンドラーはドジャースの意向を支持し、対戦を拒否した場合は出場停止処分を課すと発言、ドジャースの監督であるレオ・ドローチャーも「肌の色に関係なく優秀な選手であれば使う。もし自分に反対する者がいたら、チームを出て行ってほしい」と語りました。

ぺんどら
ぺんどら

こんなつい最近まで、アフリカ系アメリカ人を差別をするような問題があったとは信じられませんね

そして、ジャッキーがMLBのフィールドに立つと、球場には26,623人の観客が集まり、そのうち半数以上の1万4千人はジャッキーの姿を見ようとするアフリカ系の市民でした。

その後の試合で、スタンドや相手ベンチからの罵声を浴びるものの、ジャッキーはリッキーとの誓いを守って必死に耐えていると、チームメイトが声をかけたり、彼を擁護する発言をしたりするようになりました。

この年、打率.297、本塁打12本、打点48で、リーグトップの盗塁29の好成績を残すと、この年に制定された新人王を受賞しました。

ジャッキーは、どんな嫌がらせを受けようとも人前で涙を見せたことはありませんでしたが、彼の活躍を見たヨーロッパ系の男の子が「大きくなったらジャッキー・ロビンソンのような素晴らしい野球選手になりたい」と語った話を伝え聞いた時、大粒の涙を流したそうです。

ぺんどら
ぺんどら

自分の努力や苦労が一番報われた瞬間だったんでしょうね

そして、MLBに新たな歴史を刻んだジャッキーは、その後、チームでの地位を不動のものにしていきます。

打率本塁打打点盗塁備考
1947.297124829
1948.296128522
1949.3421612437首位打者
1950.328148112
1951.338198825
1952.308197524最高出塁率(.440
1953.329129517
1954.31115597
赤太字はリーグ最高の成績

1949年から1954年まで6年連続で打率3割以上を記録し、同じくこの間6年連続でオールスターゲームの選手にも選出されています。

1955年には、自己最低の成績で終わるものの、ドジャースはアフリカ系選手のいないニューヨーク・ヤンキースを破ってワールドチャンピオンになり、ジャッキーもその一員となりました。

1956年、シーズン終了後にニューヨーク・ジャイアンツへの移籍の話がありましたが、「ドジャースでプレーできないなら」と現役を引退しています。

このように、ジャッキーは、アフリカ系アメリカ人が想像を絶する差別を受けていた時代に、多くの困難を乗り越え、MLB内でのアフリカ系アメリカ人の道を開いたという功績が称えられ、それを忘れないためにも彼の背番号がMLB全球団で永久欠番になっているんですね。

ぺんどら
ぺんどら

野茂投手が入団した時もそうですが、ジャッキーがいたドジャースは開放的な球団である印象が強いですね

MLBの全員が背番号「42」をつける日

MLBでは、毎年4月15日に全球団の選手をはじめ、監督、コーチも背番号「42」をつけます。

これは、ジャッキー・ロビンソンがMLBデビューした4月15日(1947年)を記念したものです。

2004年にケン・グリフィー・jr.の提案で、4月15日に希望する選手全員が背番号「42」をつけて試合に臨み、ドジャース、カージナルス、パイレーツ、フィリーズ、ブルワーズ、アストロズでは、選手、監督、コーチ全員が着用しました。

2009年になると、審判を含む全員が背番号「42」をつけて試合に臨み、現在も恒例の行事となっています。

ぺんどら
ぺんどら

アフリカ系の選手が思いきり活躍できる環境を作ってくれたジャッキーに対する感謝の気持ちが感じられますね

まとめ

この記事では、MLBでは背番号「42」が特別なものであることを紹介しました。

アフリカ系アメリカ人であるジャッキー・ロビンソンが、MLBでの幾多の困難を乗り越え、多くの輝かしい功績を残し、その後のMLBの発展に寄与したことを称え、全球団で永久欠番となっています。

また、MLB新人賞の最初の受賞者がジャッキーであることを記念して、1987年にMLBの新人賞に「ジャッキー・ロビンソン賞」という別名もつけられました。

ジャッキーは、野球の成績も優れていましたが、それ以上にアフリカ系選手のMLBでの活躍を早めるという功績を残しました。

自分を変えたい、周りを変えたい、何かを変えるために必要なのは、歯を食いしばって困難に挑戦をつづけることだと教えてくれていますね。

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