この記事では、MLBにおいて三冠王を獲得した歴代の選手を紹介します。
野球の1シーズンにおいて、首位打者・本塁打王・打点王の3つのタイトルを独占した選手は、「三冠王」と呼ばれ表彰されます。
- 安定した高い打率
- ホームランを打てる長打力
- 走者が塁にいる時の勝負強さ
が必要で、その打者が打撃バッティング技術で総合的に優れていることを現しています。
- 【MLB】三冠王の歴代の選手
- ポール・ハインズ(Paul Hines)
- ティップ・オニール(Tip O’Neill)
- ヒュー・ダフィー(Hugh Duffy)
- ナップ・ラジョイ(Nap Lajoie)
- タイ・カッブ(Ty Cobb)
- ロジャース・ホーンスビー(Rogers Hornsby)
- ジミー・フォックス(Jimmie Foxx)
- チャック・クライン(Chuck Klein)
- ルー・ゲーリッグ(Lou Gehrig)
- ジョー・メドウィック(Joe Medwick)
- テッド・ウィリアムズ(Ted Williams)
- ミッキー・マントル(Mickey Mantle)
- フランク・ロビンソン(Frank Robinson)
- カール・ヤストレムスキー(Carl Yastrzemski)
- ミゲル・カブレラ(Miguel Cabrera)
- MLB三冠王の歴代の選手【まとめ】
【MLB】三冠王の歴代の選手
MLBで三冠王を達成した歴代の選手を紹介します。
ポール・ハインズ(Paul Hines)
- 1855年3月1日、バージニア州出身
- 右投げ右打ち、外野手
達成年 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 所属チーム |
---|---|---|---|---|
1878年 | .358 | 4 | 50 | プロビデンス・グレイズ |
1872年に、ハインズが所属していたワシントンD.C.のナショナル・ベースボール・クラブがナショナル・アソシエーション(MLB創設以前のプロ野球)に参加した際、17歳でプロリーグにデビューしました。
その後、シカゴ・ホワイトストッキングス(現カブス)に移籍した頃から、打撃力が上がり、外野手としてレギュラーに定着しました。
1878年、プロビデンス・グレイズに移籍し、62試合に出場して打率.358、50打点、4本塁打の成績を残しました。
これは、後年の調査によって判明したものですが、MLB史上初の三冠王として記録されています。
試合数が62で50打点稼いでいたということは、今の162試合なら150点になりますから、ほぼ毎試合タイムリーを打ってくれる頼もしい選手ですね。
ティップ・オニール(Tip O’Neill)
- 1858年5月25日、カナダ・オンタリオ州出
- 右投げ右打ち、外野手(左翼手)
達成年 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 所属チーム |
---|---|---|---|---|
1887年 | .435 | 14 | 123 | セントルイス・ブラウンズ |
1883年、ニューヨーク・ゴサムズに投手として入団しました。
この年、19試合に登板しましたが、5勝12敗、防御率4.07と活躍できませんでした。
1884年、アメリカン・アソシエーションのセントルイス・ブラウンズ(現カージナルス)へ移籍。
すると、登板17試合で、11勝4敗、防御率2.68と好投し、打つ方でも打率.276、54打点の成績を残しました。
1885年から外野手に専念するようになると、打撃の面でめざましい活躍を見せはじめます。
1886年は、ほぼフルシーズン出場して、打率.328・リーグ最多の107打点の活躍をみせました。
1887年には、出場124試合で打率.435、本塁打14本、123打点の成績を残し、三冠王を達成しました。
他にも本塁打数、安打数、二塁打数、三塁打数でもトップになり、MLB史上唯一の塁打王になっています。
1983年に、カナダ野球殿堂が創設され、オニールは殿堂入りしました。
カナダ野球殿堂では、ティップ・オニール賞(Tip O’Neill Award)という賞があります。
毎年、「質の高い試合を目指し、卓越した成績とチームへの貢献を残したと判断される」カナダ人選手が表彰されます。
カナダ出身の選手ですね。打率が.435って、打席に立つと半分近くはヒットを打っていたんですね。
ヒュー・ダフィー(Hugh Duffy)
- 1866年11月26日、ロードアイランド州出身
- 右投げ右打ち、外野手
達成年 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 所属チーム |
---|---|---|---|---|
1894年 | .440 | 18本 | 145 | ボストン・ビーンイーターズ |
1888年、シカゴ・ホワイトストッキングス(現シカゴ・カブス)でデビューしました。
2年目からレギュラーの右翼手として活躍、1890年に結成されたプレイヤーズ・リーグのシカゴ・パイレーツでリーグの最多安打と最多得点を記録しました。
1891年に、アメリカン・アソシエーションのボストン・レッズに移籍。
この年には、110打点でリーグ打点王になっています。
1892年、ナショナルリーグのボストン・ビーンイーターズ(現アトランタ・ブレーブス)に移籍。
すると、常に打率3割以上を打つようになり、1893年には、打率.363の記録を残しています。
1894年、近代野球以前のMLB歴代最高打率.440を記録し、打点145、本塁打18を記録しました。
これは、その後に、この年の「三冠王」であったことが判明しています。
1945年、アメリカ野球殿堂入りしています。
後になって判明するって、この時代あるあるですね。
ナップ・ラジョイ(Nap Lajoie)
- 1874年9月5日、ロードアイランド州出身
- 右投げ右打ち、内野手
達成年 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 所属チーム |
---|---|---|---|---|
1901年 | .426 | 14 | 125 | フィラデルフィア・アスレチックス |
1896年、フィラデルフィア・フィリーズに入団しました。
ラジョイは、フランス系カナダ人の血を引いており、優雅で洗練されたプレーで、ファンのみならず選手からも尊敬される存在でした。
1900年のシーズン終了後、フィリーズとの契約更改の交渉が決裂。
1901年、アメリカン・リーグのメジャーリーグ宣言とともに誕生したフィラデルフィア・アスレチックスに移籍しました。
この年、打率.426、打点125、本塁打14で、この年の「三冠王」を達成しました。
1937年にアメリカ野球殿堂入りしました。
フランス人の血を引いたナップの「優雅で洗練されたプレー」を見てみたいです。
タイ・カッブ(Ty Cobb)
- 1886年12月18日、ジョージア州出身
- 右投左打、外野手
達成年 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 所属チーム |
---|---|---|---|---|
1909年 | .377 | 9 | 115 | デトロイト・タイガース |
実家がイギリス貴族の血を引いた名家でしたが、特別な目で見られることをひどく嫌ったカッブは、14歳頃から野球に興味を持ち、熱中するようになりました。
1905年、デトロイト・タイガースでメジャーデビューを果たしました。
1907年、打率.350で当時史上最年少で首位打者になりました。
また同時に、最多安打、打点王、盗塁王にもなり、本塁打もリーグ2位を記録しました。
そして、それまで優勝とは縁のなかったタイガースをリーグ優勝に導きました。
1909年に打率.377、本塁打9本、107打点で、この年の「三冠王」を達成しました。
また、最多安打・打点王・首位打者・本塁打王・盗塁王も獲得し、打撃全タイトル制覇したMLB史上唯一の選手です。
カッブは首位打者を12回獲得していて、これはMLB記録です。
1936年には、アメリカ野球殿堂入り選手第1号の栄誉に輝いています。
お父さんに教師になるように言われていたけど、反発して野球選手になって、これだけの成績を残せたなら、お父さんも納得でしょうね。
ロジャース・ホーンスビー(Rogers Hornsby)
- 1896年4月27日、テキサス州出身
- 右投げ右打ち、内野手
達成年 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 所属チーム | |
---|---|---|---|---|---|
1度目 | 1922年 | .401 | 42 | 152 | セントルイス・カージナルス |
2度目 | 1925年 | .403 | 39 | 143 | セントルイス・カージナルス |
1915年、カージナルスに入団、翌1916年の打率は.313、15本もの三塁打を放ち、長打率は既に.444になっていました。
1917年の打率.327、三塁打17本はリーグ最多で、長打率.484もリーグトップの成績でした。
1920年には、打率.370、94打点を記録し、初めてリーグ首位打者と打点王の二冠を獲得しました。
1921年には、安打数・得点・二塁打・三塁打・打点・打率・出塁率・長打率でリーグトップとなりました。
1922年、打率.401は自身初の4割超えを記録するとともに、150打点、42本塁打を記録し、三冠王となりました。
1924年、ナショナルリーグ記録となる打率.424、1925年にも打率.403を記録して、MLBタイ記録の2年連続打率4割超えを達成しています。
1925年は、打率.403、143打点、本塁打39本を記録、MLB史上初の2度目の三冠王を達成しています。
1942年、アメリカ野球殿堂入り選手に選出されています。
ホーンスビーの全盛期には、背番号が導入されていなかったため、その当時のチームロゴを背番号の代わりとして永久欠番扱いとしています。
経歴を見てみると、三冠王を2回も取る選手となると、毎年のように三冠王を取れそうな成績を残しているんですね。
ジミー・フォックス(Jimmie Foxx)
- 1907年10月22日、メリーランド州出身
- 右投げ右打ち、内野手
達成年 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 所属チーム |
---|---|---|---|---|
1933年 | .356 | 48 | 163 | フィラデルフィア・アスレチックス |
1925年、フィラデルフィア・アスレチックスに入団し、17歳でMLBデビューしました。
ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグと並ぶ1930年代の強打者で、MLB史上最強の右打者の一人です。
捕手として入団しましたが、1928年に内野手に転向すると長打力が開花しました。
「彼ほど速い打球を飛ばせる選手はいなかった」と言われるほど、突き刺さるような本塁打を数多く放っています。
1932年、58本塁打と169打点で、本塁打王と打点王の二冠を獲得し、MVPを受賞しました。
1933年、打率.356、48本塁打、163打点で三冠王となり、2年連続MVPにも輝いています。
1934年、全米選抜チームの一員として来日、沢村栄治の伝説でもある「全米軍のクリーンナップを4連続三振」に打ち取られた選手の中の1人です。
通算11度の90四球以上と通算12度の規定打席到達での出塁率4割以上を記録し、高い選球眼を併せ持つ巧打者でした。
1951年、アメリカ野球殿堂入り選手に選出されています。
フォックスの打ったホームランは、いつも低い弾道のライナー性の当たりだったんでしょうか。
チャック・クライン(Chuck Klein)
- 1904年10月7日、インディアナ州出身
- 右投げ左打ち、外野手
達成年 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 所属チーム |
---|---|---|---|---|
1933年 | .368 | 28 | 120 | フィラデルフィア・フィリーズ |
1928年にフィラデルフィア・フィリーズでMLBデビューし、1929年には、43本塁打で初の本塁打王となりました。
1931年、121打点と121得点で初の打点王と得点王を獲得しています。
1932年、38本塁打と20盗塁で本塁打王と盗塁王を同時に獲得して、その年のMVPになりました。
1933年、28本塁打、120打点、打率.368で三冠王となりました。
クラインは683試合目で通算1000安打に到達していて、これはメジャーリーグの最速記録です。
クラインは、毎シーズンのように背番号を変えていましたが、このうちフィリーズ在籍時につけていた「1」、「32」、「36」は、その背番号をつけたフィリーズの後輩選手も活躍し、それぞれの永久欠番となっています。
1980年、アメリカ野球殿堂入り選手に選出されています。
イチローが通算1000安打を達成したのが696試合目ですから、イチロー以上の選手を想像する必要がありますね。
ルー・ゲーリッグ(Lou Gehrig)
- 1903年6月19日、ニューヨーク州出身
- 左投げ左打ち、内野手
達成年 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 所属チーム |
---|---|---|---|---|
1934年 | .363 | 49 | 165 | ニューヨーク・ヤンキース |
1923年の途中からヤンキースの一員となり、MLBデビューしました。
ベーブ・ルースの直接指導され、1925年にはレギュラーに定着、打率.295、20本塁打68打点を挙げました。
1926年、打率.313に47本の二塁打と、アメリカン・リーグでトップの20三塁打、16本塁打、112打点を挙げました。
1927年、打率.373、47本塁打、175打点を挙げました。
この年の1シーズン117長打はベーブ・ルースに次ぐ歴代2位で、また447塁打も歴代3位で、アメリカン・リーグの年間MVPになりました。
1931年にゲーリッグが達成した184打点は、現在もアメリカン・リーグ記録です。
1934年、打率.363、49本塁打、165打点で三冠王を達成しました。
これは、三冠王の最多打点記録で、さらに最年長記録でもあります。
1925年6月1日に代打として登場してから1939年の14年間、当時の世界記録となる2130試合連続出場を果たしています。
その頑丈さから鉄の馬(Iron Horse)と呼ばれていました。
1939年、体調を悪化させていて、連続出場2130試合目で無安打に終わり、一塁守備を普通にこなすことも難しくなりました。
そのため、2日後の試合に出場しない事を監督に告げ、連続試合出場記録に終わりを告げました。
1939年、当時史上最年少でアメリカ野球殿堂入り選手に選出されています。
ゲーリッグの背番号「4」は、MLB史上初めての永久欠番です。
日本では、「鉄人」衣笠さんに連続試合出場の記録を破られたときに有名になりましたが、三冠王も獲得する好打者でもあったんですね。
ジョー・メドウィック(Joe Medwick)
- 1911年11月24日、ニュージャージー州出身
- 右投げ右打ち、外野手
達成年 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 所属チーム |
---|---|---|---|---|
1937年 | .374 | 31 | 154 | セントルイス・カージナルス |
1932年、セントルイス・カージナルスに入団、26試合に出場して打率.349を記録を残しました。
1935年、打率.353、126打点を挙げ、1936年には、月間50安打をシーズンで2度達成するなどして、リーグ最多の223安打、打率.351、138打点を記録しました。
1937年、打率.374、本塁打31本、154打点で三冠王に輝きました。
また、打撃部門の成績をほぼ独占し、リーグMVPにも選ばれました。
1968年、アメリカ野球殿堂入り選手に選出されています。
月間50安打って、打席に立ったら毎回ヒットで出塁というくらいスゴイですね。
テッド・ウィリアムズ(Ted Williams)
- 1918年8月30日、カリフォルニア州出身
- 右投げ左打ち、外野手
達成年 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 所属チーム | |
---|---|---|---|---|---|
1度目 | 1942年 | .356 | 36 | 137 | ボストン・レッドソックス |
2度目 | 1947年 | .343 | 32 | 114 | ボストン・レッドソックス |
1939年、MLBデビューを果たすと、1年目から活躍し、145打点で、打点王を獲得しました。
1941年、打率4割の期待がかかったシーズン最終日、この時点で打率.3995でしたが、フィラデルフィア・アスレチックスとのダブルヘッダーで8打数6安打を記録し、打率.406で首位打者を獲得しました。
23歳1か月での首位打者は、現在でも最年少記録で、また、最後の打率4割達成者です。
1942年、打率.356、36本塁打、137打点で三冠王を獲得。
1947年にも打率.343、32本塁打、114打点で、MLB最多タイの2度目の三冠王を獲得しています。
1949年、MLB史上初の3度目の三冠王のチャンスでしたが、最終戦に1毛差で打率を逆転されて、三冠王を逃しています。
1966年、アメリカ野球殿堂入り選手に選出されています。
1984年、ウィリアムズの背番号「9」は、レッドソックス初の永久欠番です。
たった1毛差で首位打者をMLB史上初の3回目の三冠王を逃したなんて、夜も眠れなくなりそうですね。
ミッキー・マントル(Mickey Mantle)
- 1931年10月20日、オクラホマ州出身
- 右投げ両打ち、外野手
達成年 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 所属チーム |
---|---|---|---|---|
1956年 | .353 | 52 | 130 | ニューヨーク・ヤンキース |
8歳で野球を始め、セミプロの投手であった父親から、当時としては珍しいスイッチヒッターとしての英才教育を受けました。
1951年、マイナー時代に遊撃手として47失策を記録してしまいました。
そのため、俊足と肩の強さが発揮できる外野手にコンバートされ、開幕戦で「3番・右翼手」でMLBデビューしました。
彼の大きな特徴は、球界随一の俊足で、一塁までの到達タイムは3秒1で、しばしばドラッグバントで内野安打を稼いだりしていました。
その後、スランプでAAA(トリプルA)に降格した際に、マントルが長打力を生かした次世代のスーパースターになると期待していた監督から、単打を稼ぐ打者でなく、もっと大きな打者になれと叱責、鼓舞されました。
1956年4月17日、アイゼンハワー大統領が観戦する前で、推定525フィート(約160m)の場外本塁打を放ちました。
すると、感激した大統領から賛辞を送られ、マントルは「アメリカの大統領が握手をしてくれた」と大変喜びました。
この年は終始好調で、打率.353、52本塁打、130打点で、スイッチヒッターとして史上初めて三冠王を獲得しました。
1953年4月17日にグリフィス・スタジアムで放った打球は、超特大の171.8m(565フィート)にもなる場外本塁打で、マントルの飛距離が大きく話題になりました。
また、1960年にタイガー・スタジアムでの本塁打は195m(640フィート)あったとされていて、ギネスブックに「史上最長本塁打」として掲載されています。
1974年、アメリカ野球殿堂入り選手に選出されています。
AAAに落ちた時の監督の叱責がなければ、196mなんていう超特大ホームランは生まれなかったでしょうね。
フランク・ロビンソン(Frank Robinson)
- 1935年8月31日、テキサス州出身
- 右投げ右打ち、外野手
達成年 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 所属チーム |
---|---|---|---|---|
1966年 | .316 | 49 | 122 | ボルティモア・オリオールズ |
1953年、高校を卒業後、シンシナティ・レッズと契約、傘下のマイナーチーム、オグデン・レッズで打率.348、83打点を記録しました。
1956年、シンシナティ・レッズに昇格し20歳でMLBデビューしました。
この年、152試合出場で新人最多タイの38本塁打で、新人王に選出されました。
1961年には、ナショナル・リーグ最初のMVPを受賞しました。
1965年シーズン後、当時レッズから放出されてしまいました。
しかし、翌1966年、移籍先のボルティモア・オリオールズで打率.316、49本塁打、122打点を記録し、三冠王に輝きました。
これは、アフリカ系アメリカ人選手として史上唯一の三冠王です。
チームもリーグ優勝、オリオールズ初のワールドチャンピオンにもなりました。
シーズンMVPとワールドシリーズMVPともに選出され、両リーグでのMVP獲得は、MLB史上初の快挙でした。
1972年、ロサンゼルス・ドジャースへ移籍してしまいますが、ボルティモア・オリオールズは、ロビンソンの背番号「20」をチーム初の永久欠番に指定しました。
1982年、アメリカ野球殿堂入り選手に選出されています。
まだまだアフリカ系アメリカ人が辛かった時代に、勇気と希望を与えた選手ですね。
カール・ヤストレムスキー(Carl Yastrzemski)
- 1939年8月22日、ニューヨーク州出身
- 右投げ左打ち、外野手
達成年 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 所属チーム |
---|---|---|---|---|
1967年 | .326 | 44 | 121 | ボストン・レッドソックス |
少年時代のヤストレムスキーは、地元のニューヨーク・ヤンキースでプレイする事を夢見ていました。
しかし、スター選手が多いヤンキースでは出場機会も少ないと考え、ライバルであるボストン・レッドソックスへ入団しました。
1961年に左翼手としてMLBデビューし、1963年には打率.321で首位打者に輝きました。
1967年、ホワイトソックス、タイガース、ツインズ、レッドソックスの4チームで史上まれに見る大接戦となりました。
そして、ツインズとの試合で8打数7安打と打ちまくったヤストレムスキーなどの活躍で、レッドソックスが21年ぶりにリーグ優勝を果たしました。
この年、打率.326、44本塁打、121打点で三冠王を獲得し、MVPも受賞しました。
1968年、史上初の2割台の首位打者誕生が噂されるほど投手有利の年でした。
しかし、ヤストレムスキーがただ1人打率.301と3割を打って、3度目の首位打者に輝きました。
1989年、アメリカ野球殿堂入り選手に選出されています。
ヤストレムスキーの背番号「8」は、レッドソックスの永久欠番です。
小さい頃からの夢だったヤンキースを諦めた、その反骨心が、これだけの成績を残す選手を生んだのでしょうね。
ミゲル・カブレラ(Miguel Cabrera)
- 1983年4月18日、ベネズエラ・アラグア州出身
- 右投げ右打ち、三塁手・一塁手・左翼手・右翼手
達成年 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 所属チーム |
---|---|---|---|---|
2012年 | .330 | 44 | 139 | デトロイト・タイガース |
1999年、マーリンズを上回る契約金を提示したニューヨーク・ヤンキースやロサンゼルス・ドジャースを蹴って、フロリダ・マーリンズと契約しました。
これは、「野球で芽が出ないまま引退した際には、大学進学を認め学費も球団が負担する」という条件を契約に盛り込んだためです。
また、カブレラ自身が中南米系選手が活躍したマーリンズのファンだったことなどが影響しています。
2003年6月20日、球団史上2番目の若さとなる20歳63日でMLBデビューを果たしました。
2005年、打率.323、33本塁打、116打点で、自身初の3割・30本・100打点を達成しました。
2007年、打率.320、34本塁打、119打点で、2度目となる3割・30本・100打点を達成しました。
この年、トレードでデトロイト・タイガースへ移籍しました。
2008年、自己最多となる37本塁打で、自身初の本塁打王を獲得しました。
2009年、打率.324、34本塁打、103打点で、3度目となる3割・30本・100打点を達成しました。
2010年、打率.328、38本塁打、105打点で4度目となる3割・30本・100打点を達成し、自身初の打点王を獲得しました。
2011年、打率.334、30本塁打、105打点で5度目となる3割・30本・100打点を達成し、自身初となる首位打者を獲得しました。
2012年、打率.330、44本塁打、139打点で三冠王を達成しました。
カール・ヤストレムスキー以来45年ぶり、チームでは1909年のタイ・カッブ以来103年ぶりの三冠王となりました。
また、アメリカン・リーグのMVPも獲得しています。
45年ぶりの三冠王の獲得って、やっぱり三冠王の獲得がどれだけ難しいか分かりますね。
MLB三冠王の歴代の選手【まとめ】
MLB三冠王の歴代の選手を紹介しました。
パンチョ伊東さんのエッセイによると、打点がMLBの記録として公表されるようになったのは1907年からで、さらに、それを統一して公式記録となったのは1920年からだそうです。
また、当時の本塁打の多くは「ランニング・ホームラン」であったので、三塁打の延長程度に考えられて、ほとんど注目されていなかったそうです。
そのため、1910年代までの「三冠王」は、打率・安打数・得点数のタイトルを制した選手を指していたそうです。
単なるパワーヒッターでもない、単なるアベレージヒッターでもない。
どちらも兼ね備え、チャンスに力を発揮できる精神力も持ち合わせていないと、三冠王は取れません。
世界一のMLBの舞台で最高の記録を残した選手たちは、ほんとうにスゴイ人たちなのだと思わずにはいられません。
45年ぶりに三冠王を獲得したカブレラ以降、次にどんな選手が三冠王をとるのか楽しみですね。
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